お猪口1杯分のビール

日本酒はお猪口1口で酔いの満足感を得れるのに、 ビールは大量に飲まないと始まらないので無駄な飲み物だと話す人がいた。

確かに私たちはビールと言えば大きなジョッキで大量に飲むイメージがついている。

衣・食・住は純粋な人の欲求や自然の合理性から生まれるものではない。

生まれた時からビールは大量摂取するものなんて印象を持っていた訳では全くないのだ。

継承し受容し続けた文化のせいで、私たちはビールを大量に飲むハメになっている。

 

文化というものは一度生み出したものを破壊するのが苦手だ。

ガラスの無機質なビルも核搭載ミサイルも原理宗教もSNSも一度誕生してしまった後では、徹底的になかった事にすることができない。

人類は0→1より1→0が不可能な生き物なのだ。

 

ターミナル駅近くに並ぶ居酒屋では今日も仕事帰りの疲れ切った顔の人々で溢れている。

お猪口1杯のビールの泡を嗜む文化が作り上げられていれば、彼らは今頃もっと手軽に優雅に幸福を感じることができたのだろうか。

道三の手紙

斎藤道三が娘婿である信長を気にかける手紙が見つかったというニュースが今日の朝一番に目に飛び込んできた。

手紙の中身はまるで本物の親子のように道三が若き信長のことを末長く世話して欲しいと近隣の領主に頼んでいる。

 

道三と信長といえば、聖徳寺で初めて2人で会う際、事前に密かに見た時にはうつけの格好をしていた信長が対面時には正式な礼装で現れたので道三がその器量を見抜き感心した、というエピソードが有名だ。 

 

SNSで見かけた自称研究者には、発見された手紙は父信秀亡き後の織田家の権威が同盟の要である義理の息子に渡るよう力関係を考慮して書いただけのものと語る人もいたが、後世からの視点で見るとこの道三-信長のダイナミクスはPaiderastiaとまではいかないにしても、結構面白い。

 

有識のある老成した実力者と、強い理解者を求める若き闘志の出会いには常にロマンがある。

一説にはこの手紙は聖徳寺の対面の少し前に書かれているらしい。

手紙によると相手と信長は親しい間柄のような

ので、ひょっとしたら信長の耳にも件の手紙が届いたという話が入っていたかもしれない。

義父の心遣いの文に思うところがあった信長が死んだ父親の葬儀すら正装をしなかった正装で面会に向かい相手の心を掴んだというパースペクティブは、文学的で美しい情景になるのではないだろうか。

あるいは下剋上の過酷な時空を生き抜いてきた道三には当初から信長のうつけ姿に家臣や近親では理解できない何か野心を感じ期待を抱いていたかもしれない。

たった一枚の手紙から無数の心象が想定できそうだ。

 

信長は地元の人物ということもあり、私が人生で最初に知った「権威の象徴から最後は個人に失落」した存在の1人である。

第六天魔王でも何でもない、首を切られ焼かれたら死ぬ人間なのだから、父やお守りの平手を次々失った後で天下だなんだの前に味方が欲しいと思っているに違いないのである。

そして信長が人間であれば道三だって当時齢50を過ぎた人間である。

いつでもどこでも嫁の娘の前でも実の父の葬儀の前でもだらし無いうつけの姿をしている男が自分との対面時だけ正装して格好良く決めてきたら気分も高揚し"アイツは分かってる"なんて言っちゃうものである。

単に政治の力学だけで人が立ち回っていたと思うのはそれこそ大雑把すぎる歴史観なのだ。

 

真実や意図など最早誰にも分からない。

手紙は偽物で、聖徳寺のエピソードだって嘘っぱちかもしれない。

今私たちが語れるのは、道三と信長の関係に人が何か具体性を付加したくなる面白みがあるということだけだ。

 

 

道三はその後実の息子と対立し討死している。

いよいよ明日決戦となる前日に書いたとされる遺言状には、最早これまでという想いと共に、なんと婿の信長に宛てて自国である美濃の土地を全て譲ると書いてあるのだ。

余りにも都合の良い内容のため信長の美濃侵攻の大義名分作りの偽書だろうと言われてもいるが、火のない所に煙は立たず、道三がそのように書いてもおかしくはないと周囲に思わせる空気が2人の間にあったのだろう。

実際に道三亡き後信長が立場を失い、苦戦の日々を送るのは確かだ。

彼が亡き義父の遺言のとおりに美濃の国を平定できたのは、道三の死からおよそ10年も後の話である。

ジョバンニとシンジ

月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。

 

私はこの言葉をセリフとして読んだことがある。

中学3年生の部活の卒業講演で、

銀河鉄道の夜のジョバンニ少年を演じた。

 

文字を見るとあの頃の自分の声が聞こえる。

役をするにあたり、エヴァンゲリオン緒方恵美氏のような声、それも劇場版「まごころを君に」の電車の中で主人公が空虚に叫ぶあの孤独の極みのような声を出したくて、当時何度も繰り返し同じシーンを聞いて練習した。

 

みんな僕をいらないんだ。だからみんな死んじゃえ。

 

天の野原を駆ける列車で、人気者の友人と2人で美しい旅をして興奮するジョバンニ。

けれど夏は終わりに近く、隣の友人も既に死者であるのなら、その旅路は単に孤独への絶望と逃避でしかない。

 

こうゆう15歳の少女らしい解釈のもと、

私はあの頃ジョバンニに、或いはシンジになろうと必死に喉を震わせていた。

 

月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。

 

カンパネルラが月夜と思った河原をジョバンニは

銀河だと言った。

その瞬間急速に視界は現実から離れ、抽象空間に収縮する。

他者を、世界を、都合の良い内部からしか見れないシンジは、肉体を一度失う。

私はこの台詞を、宇宙の膨大な孤独を見ないふりして喜ぶ、酷く幼稚で浅はかな声で唱えた。

 

 

中学時代の演劇部で楽しんだのは、こういう活字や展開、隠喩の解釈だった。

ジョバンニとシンジを結びつけたときに生まれる小さな奥行きが、芝居の醍醐味だと思っていた。

 

当時の私にとってのインプットの殆どは、台本の活字だった。

今思えば、その経験が後の私の象徴主義好みに影響しているのかもしれない。

 

test 投稿、突然の降板

毎朝会社に向かう途中の自販機で紙パックのカフェオレを買う。

出社して自席でパソコンを立ち上げた後でストローをぷすっと刺し

コクリと音を立てて一口飲む瞬間。

それは平凡なoffice ladyの日常を演じる私にとって重要な場面のひとつだ。

満員電車に乗るのも汚れた駅まわりの道を歩くのも

いやそもそも朝の温かい布団から出るのさえ

完璧な場面を再現するための過程の一部となれば恐れる必要もない。

おなじみの紙パック・オレはパッケージがクリーム色で可愛いし

味も見た目にそってマイルドに甘く朝にぴったりだったので

三年間同じものを買い続けてきた。

 

ところが今日の朝いつもの自販機の前にたつと別の商品にすり替わっていた。

可愛いミルク色から豆臭い茶色の姿になった下段右から3段目は

一応同じ企業の出している紙パック・オレだったので購入してみたが

やはり味もすっかり焦茶色の味になってしまっていた。

 

つまり今日の私は無駄に会社に行き無駄に1日を過ごした無名役者となった。

「出社後に自席で紙パックを飲むOL」が突然の降板で驚いたが

残念なことに明日も出勤である。

慌てて何か別の場面を用意しなければと思い深夜適当にキーボードを叩き始めた。

実は少し前から次回作は「退勤後にblogを書くOL」を演じてみたいと思っていたのだ。

けれど言葉を紡ぐと喉が渇く。

やっぱり紙パック・オレの代替品が欲しい。

今後お供としてマグカップに入れるのをココアにするかミルクにするか悩みどころだ。