ジョバンニとシンジ

月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。

 

私はこの言葉をセリフとして読んだことがある。

中学3年生の部活の卒業講演で、

銀河鉄道の夜のジョバンニ少年を演じた。

 

文字を見るとあの頃の自分の声が聞こえる。

役をするにあたり、エヴァンゲリオン緒方恵美氏のような声、それも劇場版「まごころを君に」の電車の中で主人公が空虚に叫ぶあの孤独の極みのような声を出したくて、当時何度も繰り返し同じシーンを聞いて練習した。

 

みんな僕をいらないんだ。だからみんな死んじゃえ。

 

天の野原を駆ける列車で、人気者の友人と2人で美しい旅をして興奮するジョバンニ。

けれど夏は終わりに近く、隣の友人も既に死者であるのなら、その旅路は単に孤独への絶望と逃避でしかない。

 

こうゆう15歳の少女らしい解釈のもと、

私はあの頃ジョバンニに、或いはシンジになろうと必死に喉を震わせていた。

 

月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。

 

カンパネルラが月夜と思った河原をジョバンニは

銀河だと言った。

その瞬間急速に視界は現実から離れ、抽象空間に収縮する。

他者を、世界を、都合の良い内部からしか見れないシンジは、肉体を一度失う。

私はこの台詞を、宇宙の膨大な孤独を見ないふりして喜ぶ、酷く幼稚で浅はかな声で唱えた。

 

 

中学時代の演劇部で楽しんだのは、こういう活字や展開、隠喩の解釈だった。

ジョバンニとシンジを結びつけたときに生まれる小さな奥行きが、芝居の醍醐味だと思っていた。

 

当時の私にとってのインプットの殆どは、台本の活字だった。

今思えば、その経験が後の私の象徴主義好みに影響しているのかもしれない。